鵠沼に於ける著者
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小説戯曲中に現はれたる女性と申しても、小説戯曲は古今東西に渉り甚だその類が多く、その女性も亦極めて多いのであります。で、その多い女性のうちで大体次の三種の女性が好きで、もし、その小説戯曲に十分表現し切られてゐない場合は、自己の内面的エナージーで補足しつゝ味はひます。
一、何もかも知りつくしてゐて、しかも静かで美しくて、しとやかで思ひやりふかい、二十八九の女。
一、でなければ、何も知らない初気な無邪気な美しい少女。
一、もしくは、インテレクチュアルであつて、嫌味でなく、生意気でなくて、底力のある美しい女。
もちろん、この三種にも陽性陰性と分つことができるが、それはどちらもよい。
(文章倶楽部 大正十年一月号)
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人道主義者は、私の内なる私、浄められ、ひきしめられたる状態の下に於ける、真の島田の見地よりすれば、僅かに「許しておいてもいゝ」程度のものでしかない。これは私のいつはりなき真理である。人道主義者は零《ゼロ》であるかもしれぬが、決してプラスではない。僅かにマイナスをまぬかれてゐるところであらう。当然ならば、さう云ふ程度の人間を、何か一大貢献でもしたかのやうにもてはやさねばならぬ現代は、たしかに堕落してゐる。私は、徐ろに、真の私を生かす日を待つてゐる。あゝ、その時の偉大にして秋霜烈日の想ひよ!
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自分は黙してゐる。しかし何が自分に沈黙を強ひるのか、自分はここにかうして立つてゐていいものであらうか。太陽は輝き空は黄金色に美はしい。海の碧藍をたたへて白光を面にみなぎらせ、丘上の青葉に微風は柔らかくもつれて自分の悩ましい心に静かな平和を恵んでくれる。自分は今実に静かに自分の生きてゐることを感じられる。
自分の内に芽ぐむ思想がのびのびと生長してゆくのも感じられる。しかし自分はここにかうして静かに立つてゐていいものであらうか。地平の果てに自分を呼ぶ声を果して聴かないであらうか。騒乱の鐘の響が自分のこの寂びしい孤独にひびかないであらうか。新しい世界を生みださうとする陣痛のうめきは地の奥深くきこえてくる。地上は今一せいに苦しんでゐる。その苦しみは人間の魂をつらねて見えざる大きい力と権威の下にあらしめずに、羊のやうに弱かつた人間の潜み有つ力を火焔のやうに燃えたたせてゐる。肝心なのはその力を認識し、その力の行手を見定め、その力を一身に体感して、その力の使命をみちびく人間でないか。誰かゐるであらうか。
ああ、この自分をおいて誰れがゐるか。ああ、生れてこのかた君達の苦しみを苦しみとして来たこの自分、貧しさに育つものは貧しさにすりへらされ、真理を想ふものは地上の苦痛を忘れがちである。今地と人類の求めるものはあらゆる苦しい認識のうちにも、尚人間の未来を祝福するもの、尚人間の未来を信ずるもの、そのためにそれのみに生存の使命を感ずるもの、この自分より外にはあるまい。
――騒乱の鐘の音は自分を求める鐘の音ではないか。ああ、なりひびく内なる強い感激よ、自分は今山上にはるかに隠れて自らを養つてゐる時ではない。地に下りて盲目な力を導き進むべきではなからうか。地にゆく、下りてゆけ――しかし、やうやく解放されて来た自分である。なさねばならぬことの山嶽のやうに多い自分である。自分は自分がなさねばならない仕事をない得ると信ずる。信ずるからにはなしとげねばならない。あの鐘の音は自分を誘惑する邪道だ、この山を下つてはならない、下りる時が来れば、たとへ和いだ海のやうに静かな時にでも自分は下りてゆくべきである。今は下りてはならない、身体がはたして鉄のやうに強健か、読むべき書を読みつくしてゐるか、書くべきものを書いてゐるか。生長し上ぐ可き芽を培うてゐるか。この一つだに十分な答のできない情けない自分でないか。ゆくことはならぬ、ゆくことは邪道だ、たとへ幾千萬の人間が殺し合はうとも、幾千萬の人間が餓ゑ死にしようとも、政治家が政権を専断してあらゆる罪悪を行はうとも、民衆の力をしぼりとる実業家はありとあらゆる害悪を行はうとも、蚊のなくやうに貧弱思想家がうならうとも、ああ、たとへ天に大風が吹き、地に火焔を吹きあぐるとも、全人類が革命の血を流さうとも、ありとあらゆる不幸が発生しようとも、自分は静かに歯をくひしばつてでも見下してゐよう――。忍耐と努力、静かになすべきことをぢりぢりと征服してゆくべきである。時がくれば嫌でも下りてゆく必然に迫られる自分ではなからうか。――自分はかうして逃避しようとするのではないか。自分も亦口ばかりの空想家でありはしないか、自分は果して未来の正確な歩みを保証する資格があるか、無論この悩める者へ自分はおもむくべきではなからうか、自らに勇気のない故に見殺しにしようとする、卑怯者で自分はあるまいか。
――たとへ、卑怯者であつても仕方がない、甘受する――自分は今勇者の誉よりも卑怯者のそしりを甘受する――、永劫より永遠にとどろく大波の一うねりをそおつとそのまま過ごさせてやらう――自分の使命は更に偉大であり更に高遠である。波よ過ぎゆくがよい、自分は静かにこの丘に立つて汝の行末を見守つてやらう。
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諸君は眼を双手で蔽うて、「太陽が出なくてはならぬ」と言ふけれど、太陽は出てゐるのだ。「己れ」と云ふ若き太陽が出てゐるのだ。眼をひらいてよつくみるがよい。
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不良者又は狂人と罵る一部の人よ、私の生活、行為、仕事のどこに狂気めいたことや不良な点があるか、仔細に見よ、少しもないではないか。たゞ、それは、さう罵る人が、私を狂人と思ひたいと、希望してゐるに過ぎぬ。
誇大妄想とは、事実大ならざるものを大と妄想することであるが、大なるものを、大とすることは決して誇大ではない。それは認識力の正確である。私は少くとも誇大者ではない。私は唯大を大とする丈けのこと、その大を見る力なき人が、例へば、筑波山丈けを知つてゐて、富士山を知らぬ人に、山は大きいといつても、いや、山はそんなに大きくはない、それは誇大で、汝は誇大妄想狂だとかう云ふ。しかし、それはさう言ふ人の認識の狭小を意味するのであつて、決して大を大とするものの妄想を意味しないのである。
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己れは、見くびつて失敗したことがなく、常に見くびらなくて失敗してゐる。このことは、正しき認識を怠ることに基因する。換言すれば、私に見くびられないものはこの世には存在しない筈なのである。
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「あなたは世と戦つて勝つたのだ」
「ふむ」
「で、今、世を、あなたは、どうかしてやらねばならない立場にゐられるのです」
「ふむ」
「だから、今ヘコタレないで下さい、今ヘコタラてな何にもなりません」
「ふむ、やるよ。ゆるゆるとね、そして最後にドシンとね、ま、見てゐてくれたまへ」
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